大人になっても、結婚しても、お母さんになっても。

「食べ方は生き方」「毎日を好きなことだけで埋め尽くす」「家=最高に居心地のいいお城」がテーマ。 結婚3年目の幸せな日々を、千葉の小さな食卓からデザインしています♪

罪悪感、を自分のなかから永久追放しようと誓ったこと。

罪悪感なんて絶対に持っちゃダメなんだよ
さいきんもらったことば。

 

罪悪感=自己否定がつねにあって、
それは自己肯定感の低さと背中合わせだった。
自分のために怒らなければいけなかった場面でとっさに怒れなくて、感情に蓋をして、自分を責めてっていうパターンが人生に何度かあって。
それは自己肯定感の低さゆえだったんだ、、、と、いろんなことの説明がついた。

 

わたしには夫がいてくれたから、20代のぼろぼろのころからしたら自己肯定感はかなりあがっていたと思ってたのが、まだまだだったんだね。

 

子どもが大事。子どものことばかり考えてきた。
それもそうだけど、わたしもっと自分を愛するを本気でやろう、と
たぶん実感として絶対にこれは必要なのだと、思ったのははじめてなのかもしれない。

 

自己肯定感が爆高い友人に気づかせてもらった最近。

 

自己肯定感の本を二冊よんだのだけど、どっちも罪悪感を手放す話が出てくるんだ。
罪悪感なんてみんな持ってて当たり前、あって当たり前って思ってたけどそうじゃないんだなと改めて知る。

 


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孤独じゃない孤独ってしあわせ

むすめをねかしつけ。 夫は家業のため実家へ。     このひとり時間、 珍しく今日は小さな梅酒を買ってきた。     ろうそくの火をみつめながら、 ぽかんとしてみる。     さいきん野口整体の本を借りて読んだけど、 子育て中にぼーっとしたりぽかんとする時間って大事だって。     気づけばスマホをいじったり、 SNSだらだら眺めたり 漫画読んじゃうわたし。     あたまがどーでもいいことで忙しいときがあるのに、 さいきん気付いた。     ぽかんとするのは意識しないとなかなかできないけど、 やってみると贅沢だよね。     ぼーっと梅酒のんで、火を見つめる。     あぁ、ひとりだ。     でも横の部屋ではむすめ眠ってるし あしたには夫も帰ってくるのだ。   そんな安心感を持ちながらのひとり時間は ほんとに得がたくて贅沢だなぁと思うひとりのよる。    

【19週目】「胎動、、、?」→「胎動だ!(感動)」

※記事最後に3Dエコーの画像あり 先日、妊婦健診に行った日の夕方にベッドでなんとなくお腹に手を置いてごろごろしていたとき。   「トン」   と、   下腹部から振動があった。     とても微弱だったし、位置も腸かしら?という感じだったのたけど、そのあともまた、わずかに場所を変えて   「トン」。   初日はその二回、で   3日目の昨日は下腹部から「トン」、おへその下あたりから「トン」、左腹あたりから「トン」。     初日はもしや??と思ったものの、確信が持てなかったのだけど 昨日で "あ、これ胎動だ!!!"って思って、なんかじわじわ感動した〜。     先日エコーで初めてお顔を見せてもらえたときから、愛おしさが加速して止まらない。     すでに、かわいくて仕方ない。       一生懸命生きてるんだなぁ、成長してるんだなぁって。     最初はお腹に手を当てないと分からなかったけど、この2、3日で お腹に手を当てないときでも「トン」の感触がわかるようになった。     できるだけ「トン」を返してあげたくて、撫でてあげたくて しょっちゅうお腹に手を置いちゃうこの数日。     ここまで大きくなったんだなぁ。最初は豆粒ちゃんだったのに!     ここに来てくれて、すくすく育ってくれてありがとう(*^^*)   左側から、頬に手を添えている横顔(*^^*) <スポンサードリンク>

 

「せめて3歳までは自宅保育」は贅沢なのか?

-生後半年経ったなら もちろんもう保育園に預けて、働きに出るんでしょ? という、ほかの人の前提。     いいえ、わたし せめて娘が3歳になるまでは 自宅保育するつもりなんですよ〜     でもいまどきこれって マイノリティなんだな。。。  

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  もちろん、すべてが理想通りはいかないのはわかってる。     でも できるだけ おっぱいを飲ませ続けてたい。     小さいときは たくさんたくさん抱っこして かまって 遊んでそばにいてあげたい。     集団生活をさせる必要がない年齢 (とくに0歳代は、、と、わたしは個人的には思っている) に、集団に入れようと思わない。       そう思うのは贅沢なのかなぁ。   もどかしさがいっぱい。     働くことについて、 きっとまた働いたら楽しいと思う。     働いてお金をもらうことをしたいと思う。     でも、ひとつしかない体をどこに使いたいかというと いまは娘のそばにいたいな。。。       乳幼児期をひたすら満たして満たして満たして、愛する 産前から描いていたこと。

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走馬灯ってこんなかんじ。いかに老いて死ぬか=いかに生きるか。

娘がうまれて5ヶ月目。     いろいろ慣れてきたけど なんかふとした瞬間、   おっぱい飲んでくれてるときや 腕の中で寝落ちてぐだーん、となってるとき   上目づかいで愛おしそうに見つめてくれるときとか   夜、両どなりにむすめと主人がすやすや寝てるのを感じるとき   目の奥から つーんとこみ上げてきちゃう。     あぁ、きっといのちを終えるときに   こういう可愛い顔や しあわせな瞬間が ばばーーっと走馬灯のようによぎるんだろうな。     そして いい人生だった〜って言いながら わたしは死ぬのだとおもう。     すごくふしぎな感じ。     娘がうまれてから 老いや死に、思いをはせることが増えた。     ネガティブな感じではなく、たんたんと。     いかに老いるか、死ぬか イコール いかに生きるか、だね。     いっしょに幸せに生きていこうね。

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【産後・二ヶ月】とても地味だけど、いのちを繋ぐということ

朝起きて夜寝るまで、、、 夜寝てからもたびたび起きたりしながら   オムツ変えて おっぱいあげて 足りないぶんのミルクを作ってあげて   泣いたら抱っこしてあやして 寝てる間に料理したり洗濯したりして   また泣いたら抱っこして オムツ変えておっぱいあげてミルクあげて、、、、     って、 日々同じことを繰り返しているような エンドレスなような どこに向かっているのか何を生み出してるのかわからなくなりかけたりして   なんとなくぽっかり、 薄暗いトンネルに入ったような感覚をおぼえたりしていたのだけど。     そんな日々にだいぶ慣れたさいきん。     寝かしつけ前、夕方に 暗やみにした部屋で おっぱいを吸われながら 灯した小さな明かりを見つめながら     ーあぁ これっていのちをつないでるんだな   って、なんか漠然とそんなことを思った。     この世界に何かが残るとすれば、   それは なにかのものではなく わたしが感じた感情でもなく わたしが残したなにかの成果でもなく     それは この子がわたしの元で産み落とされ この世界で生きていくという事実そのもの。     それってシンプルにすごいな、 だってそうやって   お母さんはわたしを生んで育ててくれたし おばあちゃんはお母さんを生んで育ててくれたわけだし     そんなリレーが 連綿と続いてきたからこそのいま。     そんなことを考えていたら、 ちょっとじんわり泣けた。       こうやってじんわりした記憶も、 わたしのいのちとともに消えていくわけだけど   この子が生まれて生きていくってこと。     それは変えようのない事実として残るんだな。

できるだけ多くのひとたちに育ててもらう子に

産前はシュタイナーの本とか読んだり 食生活とか情操のこととか心配ごとがたくさんあって どうやって触れさせたくないものからこの子を守ろうかを、一生懸命考えて悩んでいた。 産後に、まずは入院中に助産師さんたちから助けてもらって 自宅に戻ってからの産褥期は 主人、実母、義父義母、義姉に助けてもらって。 外出するようになってからは、 近所の人たちに声をかけていただいたりして ああ、まだ言葉もわからない 生まれて数十日しか経ってないこの子が もうこんなにまわりの人たちに愛されてるんだな〜って 幸せな気持ちになる。 すでに、まわりのみんなに育ててもらってる。 その事実をありがたく受け止めて これからもたくさんのひとたちに育ててもらいたいなって、 大事に大事に抱えこんで守るんじゃなくて まわりを信頼してゆだねて、 いろんな人たちに育ててもらいたいなと、いまは純粋に思う。 幸せだね(*^^*)